浦蘭 嶋多朗の「生き方の哲学ー1」”みおつくし”より

生き方の哲学ー1  

私はたまに坐禅を組みます。
禅寺のお堂の白壁に向かって、目を見開かず閉じず、ただひたすら半眼で白壁を感じるだけの体験です。
半眼で白壁を感じるとは、第三の目で捉えるという事かも知れません。
私が実感するものは、自分の呼吸と、いま死んではいないということだけです。
何も考えず、何も思わず、ただひたすら焦点の合わない白壁だけを感じながら、
過去に煩わされず、未来に不安を感じず、今だけを実感します。
お堂の中の静寂を感じ、空気を感じ、宇宙を感じます。
日常生活の普段の自分と、生活環境から解放された自分と、二人の自分を感じられると言っていいかも知れません。
地球の自然を感じ、地球上の様々な生命、生物を感じる。
空気を吸い、空気を吐き、宇宙を吸い、宇宙を吐く。
空気を肌に感じ、宇宙を肌に感じ、地球上の全てのものと、
そして空気と宇宙と自分がひとつになっていることを実感しながら、
流れる時間だけをただひたすら感じる。
一分前の自分、今の自分、一分後の自分。
地球と宇宙に流れる時間の中で、いま自分が生きている間のない刻(とき)。

人間の都合で勝手に作り上げた決め事や、物事の善し悪し、差別や階級、地位だの名誉だの、本能的欲望以外の欲望、そんなことに悩まされ、考えさせられ、振り回され、煩わされ、悩まされた挙げ句の果てに心身を患わしてしまいます。
煩わされることは、もしかしたら患わされるということかも知れません。
動物の世界では煩わされて患うなんていう事はきっと、ないのです。
犬や猫が精神科に掛かるとか、心療内科に通っているなんてあまり聞きません。
多くの人間は煩わされ、患わされ、物質欲に振り回され、拝金主義に踊らされ、ただひたすら地位と名誉を追いかけまわし人生を終えてしまいます。

「会社の社長になりたいけど、どうすればいいのか?」、「有名人になってお金持ちになりたいけど、どうすればなれるか?」と私のところに相談しにくる人がいます、
見返り、利益や報酬、地位や名誉、謝礼や御礼などは、努力し、頑張り、何か事を成し遂げた結果として後から付いて来るものです。
先に結果としての社長やお金持ちを目的にするのは筋違いだと思います。
「カネと名誉は後からついて来る」
煩わされる原因は人間だけが持つ欲望かも知れません。
旅の途中で雨に降られたが蓑が無い、雨を衣だと思って濡れて行こうという様な意味の句が昔ありました。
蓑を欲しいと思えば他人の蓑を盗まなくてはならない、そんな事をするくらいなら自然を受け入れ、あるがままに雨に濡れて、気ままに旅をする方がましだという、深い意味の句のようです。
人間として生きていくだけではなく、地球全体の生物、動物と共に、
大袈裟に言えば、宇宙全体と共に生きていくぐらいの捉え方で日々の生活を充実させ、人生を終わらせたいものです。
地球全体の終末が近いなどと世間で騒いでいます。
人間に与えられた大切な心さえもきっと失いかけているのでしょう。
物質的な豊かさ、経済的に豊かさイコール幸せなのでしょうか、
充実した心の豊かさが幸せな気持ちになれるのです。
経済的に豊かな人からみると、金持ちになりたくてもなれない貧乏人のヒガミだとか、金持ちになる為の努力が足りないとか、金は無いよりあるに越したことは無いときっと言うでしょう。
幸せの価値観は人それぞれ百人百様、千差万別です。
本当の豊かな生活とは何なのか、もう一度じっくりと考える時間をもつことも大切でしょう。

心の中のどこかで過去に煩わされていたり、未来に不安を感じていれば、本当にリラックスしている状態とは言えません。
ラクゼーションを求めてエステサロンに通ったり、アロマセラピーを求めたり、設備の整ったスパに行ったり、高額な料金を払って満足を売るクラブやサークル、サロンに行っても、その場その場での満足感や充実感、優越感やリッチな気分は味わえるかも知れませんが、それらの場所から離れれば何も残りません。
残るものは、空しさや、友達や知人にする自慢ばなしと、来月郵送されるクレジットカードの請求書だけです。
お金で買える優越感や、お金で手に入れる満足感は空しいものです。
お金で買えない心の豊かさと満足感こそ本当の充実を味わえる至福のリラックスです。
本当にリラックスできる状態とはどんなものでしょうか。

宇宙や自然界のエネルギーを人間が変化させ、コントロールすることはできません。
が、人間が持っている自分のエネルギーは、ある程度コントロールできます。
植物や動物も生命エネルギーを自らコントロールすることは出来ません。
植物や動物は自ら生き延びるために、必要な栄養素を自然界から吸収して生命を維持する。
人間はダイエットだとか栄養バランスを考えたりして、吸収、摂取する栄養素を調節したりします。カロリー計算しながら食事する人もいたりします。
体調や体力、体型などにこだわって生命エネルギーを調整しようとしているのです。
目に見えるエネルギーにこだわり過ぎて、目に見えないエネルギーを忘れがちです。
気力や精神力、免疫力や自然治癒力、そして「病は気から」というエネルギー。
肉体と精神のエネルギーがバランスを失えば、どこかに歪みが出てきます。
常に両面のエネルギーのバランスを考えることが大切です。

目先の欲を追い続けて日々を生きていれば、際限なく次々に欲望は連鎖し続けます。
己を知る、自分の限界を知る、そして欲望に振り回されている自分の愚かさに早く気づく事こそ、賢明な生き方ということでしょう。
二千年以上も前のソクラテスの時代から言われていることなのに、世間やマスコミ、メディアの勢いに流されてしまう。
一本の橋を右に偏らず左に偏らず常に中心を歩く、中道を進むことを心掛ける。
大昔から言われていることなのに、現代社会は大切なことを悉く忘れさせる魔力が渦巻いています。
人間社会があまりにも多くのものを創り過ぎて、それらのものに自ら振り回されて、コントロール不能になりかけているのです。
原始時代には生命を維持するために、獲物を獲る道具を作り、
暑さ寒さから身を守るために衣服を作り、外敵などから身を守るためと睡眠をとる為の家屋を作り、動物に近い状態で、人間も十分生き延びることができたはずなのに、余計なものをあまりにもたくさん創り過ぎてしまった、言語まで創って、良いもの悪いもの、美しいもの汚いもの、賢い人や愚か者、金持ちや貧乏人、果ては階級だの差別という有様です。
人間が勝手に決めた赤だの黒だの、白だの黄色だと、動物からすればいい迷惑で、青も緑も区別なく、地球の自然と一体なものなのです。
「俺たちが何で人間の勝手な都合に左右させられたり、虐待されなくちゃいけないんだ」と他の動物たちは思うでしょう。
権力なんていうものもいつの間にか人間社会に作ってしまい、いまだに世界中で権力争いや利権争い、戦争を続けています。
どこでどうボタンを掛け間違えたのかわかりませんが、人間ほど愚かな生き物はないと、動物に笑われているかも知れません。
家庭や地域、職場や会社、サークルやグループなど、人間社会だけでの傲慢な人間はある程度は受け入れられても、地球全体の自然界の生物、動物との共存では、傲慢な人間は許されず、いずれしっぺ返しを食らう事になります。

良い悪いの区別、美しい汚いの区別、果ては人種や宗教の差別、これらも全部人間が勝手に作り上げたものなのですから、本来はそんな区別や差別は無かったものです。
日本では良いとされる事が外国では悪いと言われたり、均衡のとれたモノが美と評価されたり、ときにはアンバランスなモノが芸術の世界では美と評価されることもあります。
それぞれの地域や国、時代の移り変わりなどで、人間の都合で社会的な評価が勝手に流動的に作り上げられています。
現代社会ではそれに一役かっているのがテレビを代表選手とするマスコミ、メディアなど、
世界中の多くの人々が、テレビの映像とトークによって新興宗教に似たり寄ったりのマインドコントロールをされているのです。
多数派が常識、少数派は非常識。多数派はノーマル、小数派はアブノーマル。
テレビを毎日見ている多数派の考え方は常識、テレビをあまり見ない少数派の人の考え方は非常識。
マスコミに影響を受けやすいミーハー的な多数派はノーマル、マスコミやメディアに影響を受けずに、自分をしっかり見つめている少数派はアブノーマル。
そんな評価に振り回されたり悩まされたり、苦しめられたり悲しんだりしながら日々生きることは空しいことです。
区別や差別など本来無かったはずの物事に煩わされ、もがき続けて生きているのです。

本当の幸せは現代社会に流されて生きている間は、なかなかわかりません。
死を意識したとき、目の前に死があるとき、死ぬ寸前、
そんな時に、走馬灯のように一瞬蘇る自分自身の人生の評価。
他人が、どう評価しようが、他人にどう思われようが、自分自身の生き方の評価。これが幸せの尺度でしょう。
常に死を意識し、無闇に死を恐れず、真正面から死を意識することです。
良寛さんは言いました。
「災難にあった時は逃れようとせず、災難に直面し向き合いなさい。死ぬ時がきたら死を受け入れ、死ぬ覚悟をする方が苦難苦痛から逃れる妙法だ」

神仏、霊力、法力、霊能、輪廻転生、宗教や教祖などを信じることはマインドコントロールの常套手段です。
人間は弱い生き物だと感じるときがあります。
八方ふさがり、藁をもすがりたい、いっそのこと死んでしまった方が楽になる、などと考えたりします。
そんな辛く苦しい心の状態を解放する為の、そして迷いの道から進むべき方向を暗示したり、安心感を与えるための常套手段です。
自分一人で悩みの解決の糸口がつかめないとか、身近に頼れる人がいない時などに、神仏を信じて心の拠り所として自分を納得させる。
精神安定剤などというものが無かった時代は、不安感を取り除く意味で、それなりの効果はあったのでしょう。
医療が発達した現代社会では、精神科や心療内科精神安定剤抗うつ薬など、不安感を鎮める手段は数多くあるわけですから、必ずしも神仏や宗教に頼る理由と必要はありません。
神仏を信じるとは、本来、辛さや悲しさ、苦しさや寂しさ、あらゆる煩悩から心を解放させるための方法、手段としてのものです。
豊作を願ったり、天災やあらゆる災いから身を守るというような、安心感を得るための手段です。
これらの信仰心を権力や支配者が利用することによって、いつの間にか錯覚させられたのです。
本来、迷いの心のある人が自発的に信じる対象を求めたものを、時の権力や支配者により、彼等の都合のいいように信じ込ませるというやり方に転換、錯覚させられてしまったのですね。
「人間たちは愚かな生き物だ」とさぞかし他の動物たちに思われているでしょう。

今まで述べてきた事柄を踏まえて、あらゆる知識を吸収し、知識も食物と同じように摂取したら体内で消化し、エネルギーと同じように、智慧、知性として活用応用し、生活の中で行動として活かし、実践し、体験して初めて、その何かを「知る」と言える様になるのです。
そうすればモノの価値観、見方や捉え方は全て変わってくるはずです。
今、その時を一瞬一瞬生きることができるようになる。それが自己実現、自己の確立と考えます。
私利私欲の欲望という悪魔から解放されない限り、自己実現はありえません。